岩手県大河ドラマ『鎌倉殿の13人』 柳ノ御所松尾芭蕉鎌倉殿の13人伊達綱村高館源義経高館義経堂奥州藤原氏藤原基成岩手県平泉町頼三樹三郎藤原清衡衣川館藤原基衡衣河館藤原秀衡藤原泰衡 【衣川館】“夏草や 兵どもが 夢の跡”「源義経」最期の地!(岩手県平泉町) 岩手県 2022.05.252022.08.15 Data 築城:1100年代半ば(平安時代後期)?築城主:奥州おうしゅう藤原氏(3代目・藤原基衡もとひら?) 主な城主:藤原基成ふじわらのもとなり、源義経みなもとのよしつね所在地:岩手県平泉町平泉柳御所ひらいずみやなぎのごしょ所要時間:40分 Point ■平安時代後期に奥州おうしゅう(陸奥むつ)一帯を支配した「奥州藤原氏」の館 →「藤原清衡きよひらー基衡もとひらー秀衡ひでひらー泰衡やすひら」と4代続いた■藤原清衡が「豊田館とよだのたち」(岩手県奥州市)から平泉に拠点を移す →新たな居館は「柳之御所やなぎのごしょ」(衣川館ころもがわのたての南側)■柳之御所の北側の北上川に沿った丘にも築かれたのが「衣川館」! →当初は「藤原基成もとなり」の館だった?(高館たかだち、判官館はんがんだてなどとも呼ばれる)◯「藤原基成」 ・平安時代後期〜鎌倉時代前期の公家 ・1143年(康治こうじ2年)に「陸奥守むつのかみ」「鎮守府ちんじゅふ将軍しょうぐん」になり平泉へ ・京都に戻った後「平治へいじの乱」が起きて陸奥に流罪となる ※弟の「藤原信頼のぶより」が乱の首謀者となり「平清盛たいらのきよもり」と敵対しため ・娘が「藤原秀衡」に嫁いでいたこともあり平泉で暮らす ・1189年(文治ぶんじ5年)の「奥州合戦」で捕縛されるも釈放、その後は行方不明■1187年(文治3年)2月頃に「源義経よしつね」が平泉へ落ち延びてくる →兄の「源頼朝よりとも」と対立して討伐の院宣が出ていた…■源義経は1180年(治承4年)まで藤原秀衡の許にいた →源義経の母「常盤御前ときわごぜん」と藤原基成のコネで奥州に? ※常盤御前は公家「一条いちじょう長成ながなり」(藤原基成の父の従兄弟)に再嫁■1189年(文治5年)閏うるう4月30日に源義経は衣川館で妻(郷さと)と娘を殺した後に自害 →2年前に藤原秀衡は死去、4代目の藤原泰衡やすひらの攻撃を受ける■1683年(天和てんな3年)に「伊達だて綱村つなむら」(政宗まさむねのひ孫)が「高館たかだち義経堂ぎけいどう」を建立■1689年(元禄げんろく2年)に「松尾まつお芭蕉ばしょう」が「夏草なつくさや 兵つわものどもが 夢の跡」と詠む■近年、本当の衣川館は中尊寺の北の「接待館せったいだて」ではないかとも パラメーター(5段階) 防御力 ★映えレベル ★★知名度 ★★アクセス ★★夢の跡度 ★★★★★ 「柳ノ御所」跡から見た「衣川館」(右奥の小高い山が高館) 衣川館の麓(右方向に柳ノ御所、左方向に中尊寺がある) 衣川館の入り口(跡地には「高館義経堂」が建てられている) 「高館義経堂」案内板(源義経、伊達綱村、松尾芭蕉と歴史がまとめられいる!) 「伝説義経北行コース」(有名な都市伝説!北海道にも伝承地がある) 階段を登った先に広がる景色(北上川と束稲山たばしねやまが非常に美しい!) 「頼らい三樹三郎みきさぶろう 詩碑」(幕末の尊攘志士で「安政の大獄」で処刑された頼三樹三郎が跡地で詠んだ詩の石碑) 「高館義経堂」に続く石段(夏場だと地味に効いてくる…) 「高館義経堂」(1683年[天和3年]に伊達綱村[政宗のひ孫]が建立したもの) 高館義経堂のアップ(中には甲冑姿の源義経の木像が奉納されている!) 源義経の木像(義経堂の創建と共に伊達綱村が建立したもの) 「源義経公 供養塔」(跡地を管理する毛越寺によって建立された宝篋印塔) 義経堂の近くからの景色(こちらもまた絶景!) 「芭蕉句碑」(夏草や 兵どもが 夢の跡!) 義経堂を別アングルから(毛虫の季節は上から落ちてくるので注意)