お城とかの写真集日本100名城茨城県 二の丸角櫓水戸黄門偕楽園水戸城日本三名園馬場城弘道館徳川頼房水戸黄門神社大河ドラマ大掾資幹水戸藩ら〜めん佐竹義宣江戸通房サザコーヒー茨城県水戸市大掾満幹将軍珈琲青天を衝け江戸重通徳川慶喜薬医門徳川斉昭大手門徳川光圀 【水戸城】御三家「水戸徳川家」の居城!圧巻の大堀切に“控えおろう”!(茨城県水戸市) 茨城県 2022.07.152022.09.24 Data 築城:建久けんきゅう4年(1193年)頃?築城主:大掾だいじょう資幹すけもと 主な城主:佐竹さたけ義宣よしのぶ、徳川頼房とくがわよりふさ、徳川光圀みつくに、徳川斉昭なりあき所在地:茨城県水戸市三の丸 所要時間:150分 Point ■「大掾だいじょう資幹すけもと」が1193年(建久けんきゅう4年)に源頼朝よりともに常陸ひたち(茨城県)の大掾だいじょうに任じられて築城? ◯大掾資幹 ・桓武かんむ平氏の系譜、先祖には平たいらの国香くにか(平将門まさかどの叔父)など ・「大掾」⇒国司(〜国を治める地方官)の上から3番目のランク ※全部で4つのランク「守かみ→介すけ→掾じょう→目さかん」(さらに掾の中に大・小のランクがあった) ・大掾資幹は官職名「大掾」をそのまま名字にし、そこから「大掾家」が始まる →拠点を馬場ばば(水戸城周辺)にしたことから「馬場資幹」とも呼ばれる ☆大掾家の時代には「下の丸」(水戸第一高校の校庭)に館を構えたと伝わる■1426年(応永おうえい33年)に「江戸えど通房みちふさ」の奇襲で占領され、以降は江戸家の居城に →当時の城主「大掾満幹みつもと」は青屋祭(茨城県石岡市)への参加で留守中だったとされる ※江戸通房は「河和田かわわだ城」(水戸市)の城主だった、占領事件は1427年(応永34年)とも ☆江戸家の時代は「内城うちじょう」「宿城しゅくじょう」「浄光寺」という3つの曲輪があったという■1590年(天正てんしょう18年)に太田城(茨城県常陸太田市)の「佐竹さたけ義宣よしのぶ」に攻められ落城 ◯佐竹義宣 ・清和せいわ源氏の系譜、先祖には源頼朝と金砂山かなさやま城で戦った佐竹秀義ひでよしなど ・1590年の「小田原征伐」のタイミングで豊臣秀吉の配下となり常陸一国を任せられる →常陸国の統一のため、年末にライバルだった江戸重通しげみちの水戸城を攻め落とす →翌年2月には太田城に「南方なんぽう三十三館だて」と呼ばれる国衆たちを呼び出して謀殺 ・豊臣政権の有力大名となるも「関ヶ原の戦い」の2年後に秋田へ転封 →新たな居城として「久保田城」を築いた☆佐竹家の時代は内城を「古実こみ城じょう」と称して本丸に、宿城を二の丸に整備 さらに、城の出入り口を東側から西側に変更し、本丸に橋詰はしづめ門、二の丸に大手門を築く ※本丸跡に現存する「薬医門」は佐竹家時代の橋詰門とも考えられている!■佐竹義宣の転封後は、徳川家康とくがわいえやすの子供たちが城主を歴任! ・1602年(慶長けいちょう7年)「武田信吉のぶよし」(家康の五男、武田家の名跡みょうせきを継承するも翌年早世) ・1603年(慶長8年)「徳川頼宣よりのぶ」(家康の十男、駿府城に移り、後に紀州徳川家の祖に) ・1609年(慶長14年)「徳川頼房よりふさ」(家康の十一男、水戸徳川家の始まり!)■その後は、江戸時代を通して“徳川御三家”の水戸徳川家の居城となる! ◯徳川光圀みつくに…徳川頼房の子、水戸徳川家の第2代、ドラマ『水戸黄門』のモデル ◯徳川斉昭なりあき…徳川慶喜よしのぶの父、水戸徳川家の第9代、過激な尊皇そんのう攘夷じょうい派で幕末に大きな影響力を持った、日本三名園の『偕楽園かいらくえん』を城下に築く■1868年(明治元年)の「戊辰戦争」では水戸城で「弘道館こうどうかん戦争」が勃発 →保守派「諸生しょせい党」と急進派「天狗てんぐ党」による戦いで、城内の建物の多くを焼失… ※新政府軍の敵となった諸生党が水戸城に攻め寄せ弘道館を占領するも天狗党に敗退■「三階櫓」などが残ったが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失…(弘道館は現存!) パラメーター(5段階) 防御力 ★★★映えレベル ★★★知名度 ★★★アクセス ★★★★大堀切インパクト ★★★★★ 「水戸黄門 助さん格さん像」(水戸駅の北口を出てすぐ!) 北口広場から見た二の丸の「角すみ櫓」(2021年に復元されたばかり!) 「角櫓」のアップ(両サイドの土塀も同じく復元!) 北口の歩道橋から見た二の丸と三の丸の堀切跡(深さ、スゴくない!?) かつての堀跡から見上げた三の丸(水戸城は高低差が楽しめる!) 「水戸学の道」の案内板(水戸学は幕末の尊王攘夷に繋がった重要な思想!) 案内板の「縄張り図」(那珂川と千波湖に挟まれた台地の上に築かれた!) 三の丸から見た二の丸(間は堀切、右手がスタート地点となった水戸駅) 三の丸の「弘道館」(徳川慶喜も学んだ日本最大級の藩校が現存!) 弘道館の現存する「正門」(国の重要文化財に指定されている!) 正門の銃弾の痕(弘道館戦争の時のものと言われている!) 正門の前で記念撮影(ここで戦争があったとは思えませんね) 弘道館の「正庁」(こちらも現存、国の重要文化財!) 正庁の玄関(奥には水戸藩の藩医の松延年が書いた「尊攘そんじょう」の掛け軸!) 二の丸の「大手門」(背後に三の丸、弘道館がある) 復元された大手門(角櫓と同じタイミング、2021年に復元された!) 大手門前の「徳川斉昭」の像(徳川慶喜の父で、幕末のキーマンの一人!) 徳川斉昭の像のアップ(日本三名園の「偕楽園」を築いた人物でもある!) 大手門前の「大手橋」からの景色(大堀切ヤバい!この先が水戸駅) 大手橋で記念撮影(圧巻のスケールの大手門を前に大興奮!) 大手門のアップ(完成直後に行ったので新築の色合い!) 大手門跡の案内板(佐竹義宣が築いた!取り壊し前の古写真が残る) 大手門の南側の土塁(この先に土塀が続き、角櫓が建っている!) 「二の丸」跡(文教地区になっていて小中高の学校が立ち並ぶ!) 二の丸の「大日本史編纂の地」碑(大日本史は徳川光圀が編纂を始めた膨大な歴史書) 二の丸の「安積あさか澹泊たんぱく」像(通称は「覚兵衛かくべえ」で格さんのモデルとされる) 「三階櫓」跡(水戸第三高校にかつて三階櫓があった!) 三階櫓の案内板(1945年の空襲で焼失するまで現存していた!) 二の丸跡の「大シイ」(戦国時代から自生していたと考えられている!) 「杉山坂」(二の丸へ通じる重要な坂で、途中に「やらい門」があった) 二の丸と本丸の間の「大堀切」(下には水郡線が走っている) 先ほどと反対の北側のアングル(ここの大堀切はヤバすぎる!) 本丸跡に架かる本城橋から見た大堀切(江戸時代は土橋だったそう) 本丸の虎口跡(本丸は現在、水戸第一高校。奥に薬医門が見える!) 本丸跡の案内板(高校の敷地内ですが、土塁や薬医門は見学可!) 現存する「薬医門」(佐竹家の時代に建てられたと考えられている!) 薬医門の案内板(かつては本丸の表門「橋詰門」だったと考えられる!) 本丸の内側から見た虎口(周囲には土塁が残り、枡形虎口の名残りが!) 二の丸から見た本丸(この凄まじい大堀切に控えおろう!) 二の丸の東端の「徳川頼房」像(水戸徳川家の祖となった家康の十一男) 「徳川頼房」像のアップ(1歳年下の3代将軍の徳川家光に頼りにされた!) 徳川頼房像の近くに復元された「柵町坂下門」(二の丸の南側の入り口) 柵町坂下門から水戸駅を目指す途中にある「水戸黄門」と「三階櫓」の像 水戸黄門の像(地元からホントに愛されていて色んなところで見かける!) 三階櫓の像(1階が瓦を貼り付けた海鼠壁になっていてオシャレ!) 「水戸黄門神社」(奥の丘が水戸第三高校などがある二の丸跡!) 水戸黄門神社(家老の三木みき之次ゆきつぐの屋敷があり、そこで徳川光圀は誕生したとされる) 梅まつりの時の「偕楽園」(奥は1972年に復元された「好文亭」) 好文亭からの水戸城方面の景色(右側の千波湖はかつて水戸城の東麓まで広がっていた) 水戸駅のサザコーヒー(徳川慶喜の末裔が監修した将軍珈琲が味わえる!) サザコーヒーの「将軍珈琲」(徳川慶喜が味わったコーヒーをイメージ!) 石田屋の「水戸藩ら〜めん」(水戸では徳川光圀が味わったラーメンを再現してご当地グルメに!) 水戸駅の「川又書店 エクセル店」で記念撮影(拙著のフェアをやっていただきました!)