大河ドラマ『どうする家康』お城とかの写真集愛知県 山門松平家康鼓楼慶円本堂一向一揆城郭寺院徳川家康空誓どうする家康本多正信渡辺守綱石川康正夏目広次愛知県安城市蜂屋貞次本證寺加藤教明本証寺鐘楼三河一向一揆 【本證寺】家康の“三大危機”!「三河一向一揆」の拠点となった寺院城郭(愛知県安城市) 愛知県 2023.01.242023.02.01 Data 築城:1206年(建永元年)頃開基:慶円きょうえん主な城主:空誓くうせい所在地:愛知県安城あんじょう市 野寺のでら町ちょう 野寺 所要時間:60分 Point ■鎌倉時代の初期(1206年[建永けんえい元年]頃)に「慶円きょうえん」が創建 ※慶円…小山おやま朝政ともまさ(義母の寒河尼さむかわのあまが源みなもとの頼朝よりともの乳母めのと)の次男「小山兼光かねみつ」との伝承も 比叡山で修行した後、親鸞しんらんの弟子となって天台宗から浄土真宗に改宗したとも■本證寺は「三河三箇寺」(他は上宮寺じょうぐうじと勝鬘寺しょうまんじ)に数えられる一向宗(浄土真宗)の聖地に■1563年(永禄6年)の「三河一向一揆」の拠点になり、 「空誓くうせい」(“本願寺中興の祖”である「蓮如れんにょ」の曽孫)を中心に松平家康と戦う →寺院ではあるが、堀や土塁の遺構が残るように造りは城郭だった! ※一揆の原因=家康の家臣が一向宗寺院に対する不入の約束を破ったためとも■近隣の「小川城」の石川家をはじめ、多くの松平家臣が一向一揆に味方してしまう… →「三河一向一揆」は家康の“三大危機”に数えられる(他は三方ヶ原の戦いと伊賀越え)☆「三河一向一揆」に味方した家康の主な重臣 ・石川康正(数正の父・数正は改宗して家康に味方) ・本多正信(後に許されて家康の側近に) ・渡辺守綱(後に許されて“徳川十六神将”に数えられる、異名は“槍半蔵”) ・蜂屋貞次(後に許されて“徳川十六神将”に数えられる) ・夏目広次[吉信](後に許されて三方ヶ原の戦いで討死、夏目漱石の先祖とも) ・加藤教明(“賤ヶ岳の七本槍”に数えられる「加藤嘉明」の父) など■一向一揆との戦いは一進一退の攻防となるも、家康本人が出陣して徐々に優勢に →最終的に和睦が結ばれるも、家康はすぐに破棄して寺院を破却し関係者を追放■その後、一向宗は三河では弾圧の対象となって禁止! →1583年(天正11年)にようやく活動を許され、本證寺も1585年(天正13年)に再興■境内には江戸時代に建立された建築物が現存し、戦国時代に築かれた堀や土塁が残る パラメーター(5段階) 防御力 ★★★映えレベル ★★★知名度 ★★アクセス ★★対・家康力 ★★★★★ 山門と鼓楼と水堀(この造りはもうお城です!) 「鼓楼」(1760年[宝暦10年]に建立されたもの) 山門と水堀と本堂(城郭寺院の風格たっぷり!) 「山門」(1704年[宝永元年]に建立されたもの) 山門と鼓楼(本願寺系の寺院は鼓楼とペアで城郭風な印象) 山門から見た鼓楼と水堀(右奥にも曲輪が広がり、その先に外堀があった) 山門から見た「鐘楼」(順次、解体修復作業が行われているそう) 鼓楼を内側から(まるで城の櫓のよう!) 「本堂」(1663年[寛文3年]に建立されたもの) 本堂を引きで(本堂の周囲に土塁や空堀が現存している) 本證寺の案内板と石碑 本證寺の案内板(歴史や縄張りなどがよく分かる!) 本證寺の縄張り図をアップで(主郭に本堂、北に二の丸、取り囲むように外堀) 北側から見た主郭(水堀が巡らされている!) 土塁と堀の跡(周囲は開発されているが一部分だけ遺構が現存) 先ほどの土塁跡を左側から(先は立入禁止だけど年に数日解放されるらしい) 主郭側から見た水堀(戦国時代の面影をよく残している!) 主郭の南側の土塁と堀(左奥の鐘楼は1703年[元禄16年]に建立されたもの) 主郭の南側の土塁と堀2(右奥の西側にも曲輪が広がっていた) 主郭の西側の土塁と堀(右を進むと堀底、右手前に本堂がある) 主郭の西側の土塁と堀2(右手に本堂) 主郭の西側の堀(湿地帯になっていて足が埋まる!防御力!) 北側の外堀と土塁の跡(奥がガクンと低くなっている!) 北西側から見た本證寺(左の林が庫裡のある二の丸、右の畑にも曲輪があった) 県道294合線沿いにわずかに残る北側の外堀跡(下の湿地帯がそう) 東側の外堀跡(三角地帯の湿地の部分が、かつての外堀跡) 東側の外堀跡から見た主郭方面(本證寺の山門が見える!)