埼玉県 成田氏館埼玉県熊谷市龍淵寺 【成田氏館】忍城主「成田家」発祥の地!【龍淵寺】(埼玉県熊谷市) 埼玉県 2022.02.092022.08.15 Data 築城:1053年(天喜てんぎ元年)?築城主:成田なりた助高すけたか(隆)?主な城主:成田家時いえとき、成田顕泰あきやす、成田親泰ちかやす所在地:埼玉県熊谷市上之かみの所要時間:40分 Point ■忍おし城(行田市)の城主として知られる「成田家の発祥の地」 ⇒このあたりの地名が「成田」だったことが名字の由来とされる■平安時代後期から室町時代後半に忍城に移るまで約400年も成田家の居城だった!■成田家のルーツは諸説あって不明… ⇒藤原氏の末裔?藤原ふじわらの道長みちながの子孫?横山よこやま党(武蔵国の強力な武士団)の系譜けいふ? ※龍淵りゅうえん寺じに伝わる系図だと初代は「藤原ふじわらの忠基ただもと」(平安時代中期の公家?)■「成田」を初めて名乗ったのは平安時代後期の5代目「成田助高すけたか(隆)」? ⇒12代目「成田家時いえとき」が1411年(応永おうえい18年)に「龍淵りゅうえん寺じ」を館の北に創建 ⇒14代目「成田顕泰あきやす」が忍城を築き、15代目「成田親泰ちかやす」が居城を移した? ※館跡の西側には成田泰蔵たいぞう(親泰の孫)が再興したという「泰蔵院たいぞういん」が残っている■ちなみに、石田三成に忍城を水攻めをされた時は17代目「成田氏長うじなが」(親泰の孫) ⇒城代となった“のぼう様”こと「成田長親ながちか」は成田氏長の従兄弟いとこにあたる ※◯代目の数え方も諸説ありなのでご参考までに! パラメーター(5段階) 防御力 ★映えレベル ★知名度 ★アクセス ★★牛の数 ★★★★★ 成田家の発祥の地「成田氏館跡」(成田家は後に忍家を滅ぼして、忍城を築き居城を移す!) 「成田氏舘阯」の石碑(残念ながら遺構はほとんど残されておらず、跡地は住宅や農地などに) 館跡に立つ案内板〈①成田家は藤原鎌足の末裔かも②平安時代後期の天喜元年(1053年)に成田助高が築城?③成田親泰が忍城に移るまで400年以上も成田家の居城だった〉 成田氏館跡の遠望(石碑の西側には牛小屋が建っている) 成田氏館跡から見える牛小屋の牛さんたち(モーモー) 成田氏館跡から見た東側の景色(この右手には成田家が再興した泰蔵院がある) 成田氏館の北に菩提寺として創建された「龍淵寺」(本堂) 本堂を別の角度から 本堂に掲げられた成田家の家紋「丸に三つ引」 「龍淵寺の案内板」(お寺の名前は「りゅうえんじ」) 庭園と鐘楼(新緑が美しい!) 「龍淵寺梵鐘」(成田氏長の没後200年を記念して寛政8年[1796年]に成田家臣の末裔たちが鋳造した鐘) 7基の「成田氏の墓」(12代家時、16代長泰、17代氏長、19代重長の子・房長の墓は判明済)※龍淵寺の案内板をご参考に! 「成田氏の墓」の案内板 「成田小三郎入道之碑」成田小三郎は京都に出て医者になり、後醍醐天皇に仕えたとされる人物 「成田家歴代 及 舊(旧)臣 累代供𫝥(養)塔」 「奥原晴湖 墓」(奥原晴湖は幕末から明治時代に活躍した古河藩出身の画家) 「奥原晴湖 墓の案内板」(奥原晴湖は木戸孝允や山内容堂など有名人たちとも交流があった!) 北側の「龍淵寺の参道」(松並木が美しい!) 南側の「龍淵寺の参道」(こちらも松並木が美しい!) 「龍淵寺の標柱」(梵鐘の由来が紹介されている!)