埼玉県 埼玉県伊奈町伊奈忠次伊奈忠政伊奈忠勝原市沼伊奈氏屋敷伊奈氏館頭殿権現社障子堀 【伊奈氏屋敷】治水工事のレジェンド武将!伊奈町の由来「伊奈忠次」の屋敷跡(埼玉県伊奈町) 埼玉県 2022.03.232022.08.15 Data 築城:1591年(天正てんしょう19年)築城主:伊奈いな忠次ただつぐ主な城主:伊奈忠政ただまさ(忠次の長男)、伊奈忠勝ただかつ(忠政の子)所在地:埼玉県北足立きたあだち郡伊奈町まち小室こむろ所要時間:90分 Point ■徳川家康とくがわいえやすの重臣である「伊奈いな忠次ただつぐ」が築城した屋敷(=実質お城) →1590年(天正てんしょう18年)の「小田原おだわら征伐せいばつ」で北条ほうじょう家が滅亡して、 徳川家康が関東に移封いほうとなると、 伊奈忠次は小室こむろ(現・埼玉県伊奈町)に1万石を与えられて築城 ※この地には無量寺むりょうじの閼伽井あかい坊があったが移転させたらしい■伊奈忠次は関東代官頭だいかんがしらを務めたほどの徳川家の名官僚! →各地の河川工事で特に大きな功績を上げた土木・治水業界のレジェンド ※「埼玉県伊奈町」の自治体名の由来になっている ※「茨城県伊奈町」の由来は同じく河川事業で活躍した伊奈忠治ただはる(忠次の次男)■「伊奈家」は信濃しなのの伊那いな(長野県南部)にルーツを持つとされる一族 →室町時代に三河みかわ(愛知県)に移り、松平まつだいら家(後の徳川家)に仕えたという ※伊奈氏屋敷を拠点とした伊奈家は忠勝(忠次の孫)が亡くなり断絶 パラメーター(5段階) 防御力 ★★映えレベル ★知名度 ★アクセス ★★治水レジェンド ★★★★★ 「表門」跡の近くに立つ案内板(場所は屋敷跡の最南端) 「表門」跡近くのカーブしている道路(右の土壇が最南端の曲輪跡) 「二の丸」跡の案内板と石碑(奥の土塁の上が二の丸跡と伝わる) 「二の丸」跡にある縄張り図(門や曲輪の名称は伝承されているもの) 伊奈氏屋敷跡の「散策路マップ」(地元の方々に非常に大切にされている!) 「二の丸」の北側にある土塁(間の道路は江戸時代の絵図にも見られる) 「二の丸」の北側の土塁にいた猫(さっきの写真にも写ってるよ) 「二の丸」の北側の土塁にいた猫(アップ) 「蔵屋敷」跡の西側の土塁・空堀(堀底を歩けるのは興奮するよね) 前の写真の堀底を進んだ先にある土塁・空堀(突き当たりの先の左右に展開) 突き当たりの東側の土塁・空堀(城跡あるあるの竹林が広がる) 前の写真のポイントから振り返って見た土塁・空堀(自分だけの空間って感じ) 突き当たりの西側の先の土塁・空堀(伊奈氏屋敷では最長の約100mの遺構) 中心部の「陣屋」跡の北側の土塁(左側の森が陣屋の跡地と伝わる) 陣屋跡の最西端の「頭殿ずどの権現社ごんげんしゃ」(頭殿は代官頭の伊奈忠次のことと思われる) 頭殿権現社の案内板(創建は太田道灌で、権現社となり家康を祀っていたとも) 麓から見た頭殿権現社(西側一帯は天然の要害の「原市沼はらいちぬま」が広がっていた!) 「陣屋」跡の南側(右側が屋敷の中心部かで、かつて陣屋[御殿]があったらしい!) 屋敷の最北端の「裏門」跡(かつての登城道が、そのまま道路になっている!) 裏門の堀跡(発掘調査により、お城好きに大人気の「障子堀しょうじぼり」が発見された!) 裏門の障子堀のマーキング(堀跡が分かるように線が引かれている!愛されてる!) 裏門の案内板にある「発掘された障子堀の上空写真」(美しい!) 裏門の案内板にある屋敷跡の「全景」(左上に走るのは新幹線とニューシャトル) 「裏門」跡の北側の土塁・空堀(こちらが表門では?と思えるほどの立派な遺構!) 裏門から入った先の登城道(この先は左折!江戸時代も同じルートだったみたい) さらにその先の曲道(江戸時代の絵図にも同じような登城ルートが描かれている) 裏門から見た屋敷の外側(丸ノ内陸橋って名前が良いね!)