大河ドラマ『どうする家康』お城とかの写真集愛知県 鈴木重時鈴木重辰守綱神社寺部城守綱寺徳川家康遊佐家長屋門どうする家康旧松本家長屋門初陣松平元康寺部陣屋渡辺守綱渡辺治綱 【寺部城】どうする家康!松平元康、初陣の地!【寺部陣屋・守綱寺】(愛知県豊田市) 愛知県 2023.01.162023.02.01 Data 築城:文明ぶんめい年間(1469〜87年)?築城主:鈴木重時しげとき(紀伊[和歌山県]にルーツを持つ鈴木一族)主な城主:鈴木重辰しげたつ、渡辺守綱もりつな、渡辺治綱はるつな(守綱の孫)所在地:愛知県豊田市 寺部てらべ町ちょう 所要時間:30分 Point ■室町時代の文明ぶんめい年間(1469〜87年)に「鈴木重時しげとき」が築城? →鈴木家は紀伊きい(和歌山県)にルーツを持つ一族(三河鈴木家)にあたる (三河の有力な国衆のひとつで、後に駿河[静岡県]の今川家に従う)■尾張(愛知県)の織田信秀(信長の父)が三河に勢力を伸ばすと、今川家から離反 →今川義元から討伐を受けて、鈴木重辰しげたつの寺部てらべ城に今川軍が襲来!◯1558年(永禄えいろく元年)「寺部城の戦い」 ・今川軍の武将は、これが初陣だった17歳の松平まつだいら元康もとやす(のちの徳川家康とくがわいえやす!) ・鈴木重辰は降伏して、今川家の配下に(城主は引き続き鈴木家)■1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」後に、鈴木家は松平元康に対抗! →1566年に織田家(松平家の同盟相手)の佐久間さくま信盛のぶもりに攻められ陥落 ※その後の寺部城の詳細は一時不明■1610年(慶長15年)に「渡辺守綱」が城主に就任!◯渡辺守綱…家康の重臣、異名は“槍半蔵”、“徳川十六神将”に数えられる忠臣 →以降は「寺部陣屋じんや」と呼ばれ、尾張藩の附家老つけがろうとなった渡辺家が城主を務める■矢作川やはぎがわの東岸に築かれ、現在は「守綱神社」が建ち、土塁や礎石などが残る■城下には寺部藩の家老だった遊佐ゆさ家や松本家の長屋門が現存し、 渡辺治綱はるつな(守綱の孫)が創建した渡辺家の菩提寺の「守綱寺しゅこうじ」が残っている パラメーター(5段階) 防御力 ★★映えレベル ★★知名度 ★★アクセス ★★ゲートボール度 ★★★★★ 渡辺守綱を祀る「守綱神社」(創建は1880年、主郭の南側に建つ) 「守綱神社」の案内板(明治時代に藩祖を祀るブームが各地で起きた) 守綱神社(主郭の南側の曲輪跡?土塁跡?に建っている) 守綱神社(右の「稲荷神社」は1702年に5代•渡辺定綱が建立) 守綱神社の南側(豊田スタジアムが見える!) 主郭の南側に広がるゲートボール場(曲輪跡か堀跡か?右手奥に櫓台が残る) 主郭の南側に突き出た櫓台(上には石碑が立っている) 櫓台の北側から見た主郭とゲートボール場(体感的に左側は堀跡に感じる) 寺部城の石碑と主郭(右)と堀跡?(左) 東側から見た櫓台と石碑(周囲は住宅地になっていて遺構はほぼ無し) 寺部城の石碑をアップで 櫓台から見た主郭方面(道路が堀跡?) 東側から見た主郭(段差は土塁跡?道路が堀跡?) 主郭の入り口にある「寺部城址」の案内板 東側から見た主郭(陣屋時代の礎石や井戸が再整備されている) 主郭の北側の土蔵跡(礎石を基にコンクリで整備されている) 西側から見た主郭(江戸後期から明治の建物の跡が分かる) 城跡の西側(右の林が城跡、左が天然の外堀である矢作川!) 「法珍のすみれ草句碑」(江戸時代の矢作川の工事を詠んだ句の碑) 「守綱寺」(渡辺守綱の肖像画などが伝わる!) 「守綱寺」の案内板(貴重な文化財がたくさん!) 守綱寺の「渡辺家墓所」(守綱など代々の墓が残る) 三の丸跡に建つ「遊佐家長屋門」(創建は江戸時代末期!) 三の丸跡に建つ「旧松本家長屋門」(創建は江戸時代末期!)