大河ドラマ『どうする家康』お城とかの写真集愛知県 本多忠勝龍城西郷稠頼岡崎城西郷頼嗣龍城神社松平広忠愛知県岡崎市岡崎城下 二十七曲り徳川家康松平昌安どうする家康松平信定松平元康松平清康 【岡崎城】徳川家康、生誕の地!黄金の龍が昇天した開運の城【龍城】(愛知県岡崎市) 愛知県 2023.02.02 Data 築城:1455年(康正こうしょう元年)頃築城:西郷稠頼さいごうつぎより主な城主:松平まつだいら清康きよやす(家康の祖父)、松平広忠ひろただ(家康の父)、徳川家康とくがわいえやす、田中吉政よしまさ所在地: 愛知県岡崎市 康生こうせい町ちょう 所要時間:90分(岡崎城下二十七曲りを含めると180分) Point ■三河の有力な国衆だった「西郷稠頼さいごうつぎより」が砦を築いたのに始まると伝わる →居城は菅生川すごうがわの川向かいにある「明大寺みょうだいじ城」(平岩城とも、現・六所神社あたり)◯三河西郷家(ルーツは諸説あり) ・藤原氏の一族で「肥前ひぜんの高来たかき郡の西郷」(長崎県雲仙うんぜん市)を領地にして名字とした説 (薩摩藩の西郷隆盛も、肥前西郷家の末裔とされる) ・土岐氏の一族で「美濃みのの方県かたがた郡の西郷」(岐阜県岐阜市)を領地にして名字とした説 (14世紀後半に「西郷頼音」[土岐とき頼忠よりただの子]が名乗り末裔が三河を拠点にした?)■西郷家は西郷頼嗣(稠頼の子)の時に「松平信光のぶみつ」(家康の6代前の先祖)に屈服 →娘を「松平光重みつしげ」(信光の子)に嫁がせて岡崎城を譲る ※松平光重は「大草おおくさ城」(幸田こうた町)を居城にして「大草松平家」の祖となる■「安祥あんじょう城」の「松平清康きよやす」(家康の祖父)が対立する大草松平家を攻撃! →松平昌安まさやす(光重の子)は、1524年(大永だいえい4年)に松平清康に岡崎城を譲り大草城に隠居 ※「松平昌久まさひさ」(昌安の子)は1563年(永禄えいろく6年)の「三河一向一揆」で家康と敵対し敗戦…■松平清康は安祥城から岡崎城に居城を移す! →1535年(天文てんぶん4年)に清康が暗殺された後に「松平信定のぶさだ」(清康の叔父)が岡崎城を占拠 ※松平信定は3年後に死去。孫の「松平家次いえつぐ」は一向一揆で家康と敵対している■「松平広忠」(家康の父)は伊勢に逃れた後に今川家の援助もあり岡崎城に復帰! →1542年(天文11年)12月26日に「徳川家康」が岡崎城で誕生する!■今川家から城代が派遣されて管理されるが「桶狭間の戦い」後に家康が城主に復帰 →1570年(元亀げんき元年)に「曳馬ひくま城」(浜松城と改名)に移るまで城主となる■1590年(天正18年)に家康が関東へ移封となると「田中吉政よしまさ」が城主に就任 →改築を行なって天守や石垣などを新造、城下町の整備を行う ※この頃に東海道名物の「岡崎城下 二十七曲り」の原型が築かれた■江戸時代には水野家(家康の母「於大おだいの方」の実家の系譜)や、 本多家(“徳川四天王”の本多忠勝ただかつの系譜)が城主を務める →天守などは明治時代に解体され、現在の天守などは再建されたもの■本丸跡には現在「龍城たつき神社」が建っている ・江戸時代初期に家康を祀る東照宮とうしょうぐうが天守に創建 ・1766年(明和3年)に本多忠粛ただとしが本丸に本多忠勝を祭神とする映世神社を創建 ・1876年(明治9年)に三の丸に移っていた東照宮を合祀して「龍城神社」が誕生■別名「龍城」は岡崎城築城や家康誕生の時に“金の龍”が出現して昇天した伝承に由来■2006年に「日本100名城」に選定される パラメーター(5段階) 防御力 ★★★映えレベル ★★★知名度 ★★★★アクセス ★★★家康聖地度 ★★★★★ 岡崎公園の麓の駐車場から見た東南の「菅生曲輪」(奥の一段上が東曲輪) 菅生曲輪から見た「隠居曲輪」(当時は水堀で隠居曲輪に通じる通路はなかった) 隠居曲輪に建つ「いちかわ」(八丁味噌を使った田楽味噌が名物) 隠居曲輪から見た本丸(建物がある場所にはかつて辰巳櫓があった) 本丸の南側の石垣と水堀(右上にかつて辰巳櫓が建っていた) 本丸の北側の「清海堀」と天守(堀の名前は西郷頼嗣の法名「清海」が由来) 「清堀海」と右側に伸びる「持仏堂曲輪」(曲線を描いた堀が美しい!) 清海堀から見た天守(天守は古写真などを基に1959年に再建された) 本丸に建つ「龍城神社」(祭神は徳川家康や本多忠勝など) 龍城神社と天守(天守は『どうする家康』の始まりに合わせてリニューアルオープン) 龍城神社の絵馬(中京テレビのロケで訪れた時に私も記入) 天守の麓の「東照公遺訓碑」(1936年に建立された家康の遺訓を記した石碑) 天守内の展示にある縄張り図(現在の地図と照らし合わされていて分かりやすい!) 17世紀の本多家時代の岡崎城の縄張り図 明治時代の写真に残された岡崎城(天守や櫓が確かに写っている!) 天守から見た東南側の景色(南には菅生川が流れていて台地に立っている!) 天守から見た南側の景色(左奥の丘が明大寺城跡あたりで、麓に東岡崎駅がある) 天守から見た東側の景色(右下に御殿があった本丸、左下に清海堀が見える) 天守から見た北側の景色(筒の先に徳川家の菩提寺の大樹寺が見える!) 天守から見た「大樹寺」(徳川家光の遺命によって景観が守られている!) 天守内の岡崎城のジオラマ(東側から見たアングル) 天守内の岡崎城のジオラマ2(南側から見たアングル) 天守の礎石(江戸初期から明治初期まであった天守の心柱らしい!) 本丸の東側の埋門(埋もれたような門だから埋門!) 西側の「坂谷曲輪」見た埋門(この先に本丸、左手に天守がある) 坂谷曲輪に渡る橋から見た水堀(右手が本丸、左手が坂谷曲輪) 坂谷曲輪にある「徳川家康の胞衣塚」(家康の胞衣が埋められているという) 坂谷曲輪から見た本丸(右上に見えるのが再建された天守) 坂谷曲輪の「坂谷門」(この先に丸馬出があって、その先に白山曲輪があった) 坂谷門の先の伊賀川(かつては水堀で、明治の工事で菅生川と繋がる川になった) 坂谷門から見た本丸と天守 坂谷曲輪から見た持仏堂曲輪[左]と本丸[右]の堀(奥の石橋はかつて廊下橋だった) 坂谷曲輪の「東照公産湯の井」(家康の産湯に使ったと伝わる井戸) 家康の産湯の井戸に触れられる手水(飲用ではない) 坂谷曲輪から二の丸に向かう道から見た堀(左上が本丸、右側が坂谷曲輪) 二の丸から見た北側の堀(左手に二の丸が広がり、右上に本丸がある) 北側の持仏堂曲輪から見た天守(麓には家康と竹千代の石像が!) 持仏堂曲輪から見た清海堀と本丸の虎口 二の丸から持仏堂曲輪へ通じる「太鼓門」(間には馬出のような空間があった) 太鼓門から見た持仏堂曲輪の南側の堀(右が持仏堂曲輪、左が二の丸) 持仏堂曲輪の北側の堀(右が二の丸、左に行くと太鼓門) 二の丸から見た持仏堂曲輪(自然地形を生かした戦国期の縄張りを感じられる!) 二の丸の松平元康の騎馬像(桶狭間の戦い後に帰城した家康19歳の姿をイメージ) 二の丸の家康像(岡崎城には家康の像が7体もある!) 二の丸の家康の顰像(三方ヶ原の戦いの後に描かせたというのは俗説) 二の丸のからくり時計(30分毎に家康が舞を踊る) 二の丸の本多忠勝の像(末裔が江戸時代に城主を務めた) 本多忠勝の像と天守(素敵なアングル!) 二の丸の「三河武士のやかた 家康館」(大河ドラマ中は大河ドラマ館に!) 二の丸の天守風電話ボックス(この辺りに二の丸に入る七間門があった) 二の丸跡に再建された大手門(かつての大手門は200m北東にあった) 二の丸の東の「東曲輪」(東曲輪は駐車場になり、土塀や東隅櫓が再建されている) 菅生曲輪から見上げた「東隅櫓」(絵図や松山城の野原櫓を参考に2010年に再建) 東隅櫓の東側にある「南切通し」(右が三の丸、左が二の丸) ◯岡崎城下二十七曲り(西側の矢作川&八帖村から東の籠田総門と桜城橋まで)