大河ドラマ『鎌倉殿の13人』埼玉県 源義平源義高源頼朝斎藤実盛鎌倉殿の13人畠山重能源義賢源義仲木曽義仲大蔵館大蔵合戦源為義源義朝 【大蔵館】「木曽義仲」生誕地!源氏の内乱「大蔵合戦」勃発現場【源義賢の墓】(埼玉県嵐山町) 埼玉県 2022.02.172022.08.15 Data 築城:1153年(仁平にんぺい3年)?築城主:源みなもとの義賢よしかた(源頼朝よりともの叔父おじ、木曽きそ義仲よしなかの父)?主な城主:源義賢所在地:埼玉県比企ひき郡嵐山町らんざんまち大蔵おおくら所要時間:90分 Point ■平安時代後期の源氏げんじ一族「源義賢よしかた」の居館きょかんと伝わる ※源義賢…源頼朝よりともの叔父おじ、木曽きそ(源)義仲よしなかの父 ■兄・源義朝(頼朝の父)が父・源為義と対立して、関東で勢力を伸ばす →兄・源義朝への対抗馬として、源義賢が関東へ派遣される!■1153年(仁平にんぺい3年)頃に「大蔵館」を築いて居館としたと伝わる■兄と父の対立は悪化し、1155年(久寿きゅうじゅ2年)に「大蔵合戦」が勃発! →甥・源義平よしひら(「悪源太あくげんた」という通称でもお馴染み)が大蔵館を襲撃 →源義賢や秩父ちちぶ重隆しげかた(源義賢の義父、畠山重忠はたけやましげただの大叔父おおおじ)が討死…■息子の駒王丸こまおうまる[2歳]は斎藤さいとう実盛さねもりや畠山重能しげよし(重忠の父)の手助けで脱出! →信濃しなのの木曽(長野県木曽町)に逃れて育ち「木曽(源)義仲」となる■現存の土塁や発掘された城門跡や堀跡などは室町〜戦国時代の遺構 ※当時の城主などは不明!山内上杉やまのうちうえすぎ家や小田原おだわら・北条ほうじょう家関係とか? パラメーター(5段階) 防御力 ★★映えレベル ★知名度 ★アクセス ★★源平ロマン度 ★★★★★ 西側の土塁に建つ「大蔵神社」(神社は明治時代に周辺の神社を合祀して誕生) 「大蔵神社」の参道(一帯の地名は「御所ヶ谷戸ごしょがやと」と館跡ならではの名前!) 大蔵神社の「大倉館跡」の案内板(大蔵神社のルーツは城山稲荷だそう!) 「大蔵神社」の境内(稲荷社や山王社、浅間神社、八坂神社などが合祀されている) 「大蔵館跡」の案内板その2(全体像が分かる縄張り図があるので要チェック!) 大蔵神社の下から(神社が一段高い土塁跡に建っているが分かる!) 城内とされる場所から見た大蔵神社(大倉館は周囲を土塁に囲まれていたらしい!) 「史蹟 大蔵舘趾」碑(大蔵神社の東の土塁跡に立っている!上の花は梅かな?) 南側から見た城内(大蔵神社の北に物見櫓跡という土塁も残り「高見倉」の地名が残る ※私有地なので見学不可) 大蔵神社の反対の東側の土塁跡(この奥には堀跡も残さている!) 東側の土塁跡の案内板(こちらの縄張り図も分かりやすくて良い!) 東側の土塁跡の供養碑(大蔵合戦の死者などを弔うための供養塔のよう) 供養碑の裏の堀跡(こういうスポットを発見できるのが城巡りの醍醐味!) 「大手虎口」跡(発掘調査で東の鎌倉街道に面した虎口が発見された!) 大手虎口跡から見た城内と大蔵神社(奥の一段高い場所が大蔵神社!) 北西側の石碑群(館跡の周辺には由緒様々な多くの石碑が残されている!) 「鎌倉街道」碑(大蔵館の東には鎌倉へ通ずる鎌倉街道が走っていた!) 大倉館跡の東にある「源義賢 廟所」(石碑の「帯刀たてわき先生せんじょう」は源義賢の官職名) 「源義賢の廟堂びょうどう」(この中に五輪塔で造られた源義賢の墓がある!) 「源義賢の墓」(鎌倉時代後期に建てられたとされる県内最古級の五輪塔) 「源義賢の墓」の案内板(現存するのは五輪塔の内の2層のみだそう) 源義賢の墓の向かいの「源氏三代供養塔」(源氏三代三代=源義賢・義仲・義高よしたか) 奥の左=源義賢/手前の右=源義仲/手前の左=源義高(義仲の子) 「源氏三代供養塔」の案内板(義高は頼朝の娘・大姫おおひめと婚約するも粛清された…) 源氏三代の他、父・源為義ためよしやレジェンド先祖・源義家よしいえなどの供養塔が立ち並ぶ! 供養塔の中には敵方の「平氏」や源義仲を逃した「斎藤実盛」「畠山重能」の碑も! 供養塔の下には「源氏三代の物語」という紙芝居式の解説版がある! 「源氏三代の物語」の『大蔵合戦』(源氏の内乱は8月16日の夜に起きた!) 『砺波山となみやまの戦い』(木曽義仲が平家軍を破った別名「倶利伽羅くりから峠の戦い」) 『義高の鎌倉脱出』(義仲の子「義高」は脱出するも頼朝の命令で暗殺される…) 『義仲遺児 義綱よしつな 明覚郷へ』(木曽義仲には落ち延びた子がいたという伝承が!) 鎌倉街道の「縁切り橋」(征夷大将軍の坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろの伝承が残る!) 「縁切り橋」の案内板(坂上田村麻呂が追いかけてきた妻に激怒し離縁したらしい)