お城とかの写真集日本100名城群馬県 長野業尚長野憲業内藤昌豊内藤昌秀日本100名城内藤昌月群馬県高崎市北条氏邦箕輪城郭馬出西虎口門井伊直政長野業正長野業政長野業盛 【箕輪城】復元された城門と木橋!武田信玄を6度退けた“上州の黄斑”の居城(群馬県高崎市) 群馬県 2022.08.022022.09.24 Data 築城:永正えいしょう年間(1504〜1521年)頃築城主:長野ながの業尚なりひさ?長野憲業のりなり? 主な城主:長野業政なりまさ、長野業盛なりもり、内藤昌豊ないとうまさとよ、井伊いい直政なおまさ所在地:群馬県高崎市 箕郷みさと町まち東明屋ひがしあきや 所要時間:150分 Point ■上野こうずけ(群馬県)の有力な国衆くにしゅうで、関東管領かんとうかんれいの上杉家に仕えた「長野家」の居城! →長野家のルーツはイケメン歌人の在原業平ありわらのなりひら(平安時代前期の公家)とも■“上毛じょうもう三山さんざん”の1つ「榛名山はるなさん」の裾野の東麓(榛名白川はるなしらかわの東側の台地)に築かれた →築城主は長野業尚なりひさか、その息子・憲業のりなりとも言われている■戦国時代には、後に“上州じょうしゅうの黄斑おうはん(虎)”と称された「長野業政なりまさ(正)」が城主を務める ・長野憲業の息子ともされるが詳しくは不明(厩橋ばやばしの長野家からの養子とも) ・武田信玄を6度も撃退したと伝わるが、実は当時の史料からは確認できない…■長野業政の死から5年後の1566年(永禄8年)、武田たけだ信玄しんげんに攻められ箕輪城は落城 →息子の長野業盛なりもりは一族や家臣と共に自害、長野家は滅亡した■その後は「武田家→北条家→徳川家」の支配下となり、重臣が城主に就任 ・武田時代=内藤昌豊(昌秀)、内藤昌月まさあき(昌豊の養子) ・北条時代=内藤昌月(武田滅亡後に北条家に従った)、北条氏邦うじくに(氏政の弟) ・徳川時代=井伊直政(北条滅亡後に関東に移った徳川家康から任命)■井伊直政が大改築するも1598年(慶長3年)に「高崎城」に拠点が移って廃城に■2018年から整備が始まり、城門や木橋が復元されるなど、現在ホットな城跡! (木橋が復元されてからは、まだ行けてないので、木橋は写真ありません) パラメーター(5段階) 防御力 ★★★映えレベル ★★★知名度 ★★アクセス ★★信玄撃退回数 ★★★★★★ 箕輪城跡の駐車場から出陣!(奥の丘が城跡!こちらは搦手口) 地元の英雄「長野業正」公の幟旗! 大河ドラマ『おんな城主 直虎』の頃から地元では井伊直政も推しに! 戦国時代の剣聖「上泉かみいずみ信綱のぶつな」は長野家の家臣だった 縄張り図として使える「箕輪城跡 遊歩道 案内図」 箕輪城の幟旗(旗って、やたら写真撮っちゃうよね) 駐車場の先の「搦手口」(反対の西側が大手口だったらしい) 搦手口から二の丸を目指す(左手が二の丸、右手が本丸下段の稲荷曲輪) 「二の丸」跡(本丸の南側にあり、三の丸や大手に繋がっていた!) 二の丸の案内板(めっちゃ良い縄張り図!搦手口はマップの下) 二の丸から見た搦手口(右から登城してきて、左の道を進むと本丸) 二の丸と三の丸の間にある空堀(箕輪城の空堀は壮大でアガる〜!) 二の丸の南側の「大堀切」(土橋との組み合わせが最高!) 二の丸側から見た土橋と大堀切(この先の小さい曲輪が「郭馬出」) 土橋から見た西側の大堀切(左側に復元された郭馬出の城門が見える) 土橋から見た東側の大堀切(左手が二の丸、右手が郭馬出にあたる) 「郭馬出」(大手から二の丸への侵入を阻む重要なミニ曲輪!) 復元された「西虎口門」(郭馬出の内部から見たアングル) 城門と共に復元された「雨落溝あめおちみぞ」(雨水を流すための排水路!) 「郭馬出 西虎口門」の案内板(城門の名前が長くて覚えらんない…笑) 城門から見た二の丸方面(土橋と大堀切がイイね!) 城門を外側からアップで(井伊直政の時代の城門を発掘調査を基に復元) 西虎口門・土橋・大堀切(土の城を感じられる素晴らしい構図) 城門を外側から(派手さがない色合いがまた良いのよね) 西虎口門・土橋・大堀切2(こちらのアングルも、そりゃ最高よ) 郭馬出の南側の空堀(箕輪城の空堀はどこも超巨大!) 郭馬出の西側の空堀(道がやや屈折しているのが分かってGOOD!) 郭馬出の南の曲輪「木俣」(家臣の屋敷があったと考えられている) 大堀切の堀底から(左手が二の丸、右手が郭馬出、堀底には小規模な石垣があった) 大堀切の西麓(先ほどのマップの「大堀切口」あたり) 「大堀切の石垣」跡(箕輪城には要所要所に石垣が使われている!) 大堀切口の先の「虎韜ことう門」跡(西側の入り口の1つ) 「虎韜門」跡2(こちらにも駐車場があって城跡に入れる) 虎韜門の西の「白川口埋門」(天然の外堀・榛名白川に通じる門があったそう) 虎韜門から北へ(この右手が鍛冶かじ曲輪で、そこから三の丸に進める) 鍛冶曲輪の石垣(井伊直政時代に本格的に築かれたと考えられる) 鍛冶曲輪の石垣2(隅の積み方が算木積ではなく、井伊直政の時代と思われる) 「鍛冶曲輪」(その名の通り、鍛冶場があったと考えられる) 鍛冶曲輪から見た三の丸(鬱蒼うっそうとした中に石垣が!) 「三の丸の石垣」(丸い河原石を使った井伊直政時代の野面積!) 「三の丸の石垣」2(大手口からのルートなので立派に積まれているみたい) 三の丸の石垣の案内板(下層には北条氏邦うじくに時代の石垣が眠っていたらしい!) 「三の丸門跡と石垣」(この先に重要な三の丸があり、石垣も大きめ!) 三の丸門跡の石垣(廃城時に石垣は崩されてしまったそう) 三の丸側から見た石垣(この先に石垣が左手に続き、その先に鍛冶曲輪がある) 「三の丸」跡(長野家と武田家の時代は屋敷、北条家の時代は鍛冶場だった) 三の丸から見た本丸(空堀の規模が本当にえげつない!) 先ほどの堀底の東側のアングル(左手が本丸、右手が二の丸、後ろが三の丸) 堀底の南側のアングル(左手が三の丸、右手が本丸、奥には今 木橋が架かっている) 堀底から見た「木橋」跡(三の丸から橋が架かり、この先が本丸にあたる) 三の丸から見た木橋跡(今は復元された木橋が架かっている!) 木橋跡から見た南側の空堀(右手が本丸で、奥には御前曲輪があった) 空堀の先を登ると現れる「本丸」の北の虎口(周囲が土塁に囲まれている) 本丸の南にある「御前曲輪」(本丸と共に箕輪城の中心部だった) 御前曲輪の「箕輪城跡」の標柱と「箕輪城将士慰霊碑」 箕輪城将士慰霊碑(長野業盛が自害したのは御前曲輪の持仏堂だったとも) 「御前曲輪 西虎口門」跡(この先の通仲とおりなか曲輪に通じる城門があった) 御前曲輪の井戸(1927年の洪水の地盤沈下で偶然発見!長野家累代の墓石があった) 「御前曲輪の北堀」(箕輪城は非常に広大!この先にも新曲輪があった) 御前曲輪の北側の堀底(探検&冒険感があって、めっちゃ楽しい!) 御前曲輪の西側の堀底(左手が通仲曲輪、右手が御前曲輪!石垣が残る!) 御前曲輪の下の石垣(どこだどこだとグルっと周ってからやっと発見!感動!) 御前曲輪の下の石垣2(この上にも木橋が架かっていた!) 御前曲輪の南端の堀底(この先に先ほどの石垣がある) 御前曲輪の南端の堀底2(さっきのと反対方面で、右奥に見えるのが本丸) 再び堀底から登っての「本丸」跡(南北100m×東西70mの広大な曲輪) 「本丸」跡2(周囲の土塁もキレイに整備されていて見学しやすい!) 本丸跡の石碑(数年前は草ボーボーだった記憶、整備が進んでいる!) 本丸跡の石碑2(右手の先に御前曲輪がある) 本丸跡の石碑3(文章の半分は長野家に関することで、愛情が感じ取れる) 本丸跡から見た「木橋」跡(復元された土橋も早く見たい!) 本丸を東南の隅から一望(左手に奥に木橋、右手の奥に御前曲輪がある) 本丸の東南側の虎口(背後には「本丸門 馬出」があり、その先に二の丸がある) 本丸側から見た「本丸門 馬出」(土橋の先を進むと二の丸、左に進むと搦手口) 「本丸門 馬出」から見た西側の空堀(右手が本丸、幟旗が良い雰囲気!) 「本丸門 馬出」から見た本丸方面(左手に空堀、背後には二の丸と搦手口が続く) 箕輪城ガイドのプリントと「日本100名城スタンプ」(押印済の紙が置いてある) 国指定史跡 箕輪城跡の木橋が完成 高崎 | 上毛新聞社のニュースサイト...