■鎌倉時代の初期(1206年[建永元年]頃)に「慶円」が創建
※慶円…小山朝政(義母の寒河尼が源頼朝の乳母)の次男「小山兼光」との伝承も
比叡山で修行した後、親鸞の弟子となって天台宗から浄土真宗に改宗したとも
■本證寺は「三河三箇寺」(他は上宮寺と勝鬘寺)に数えられる一向宗(浄土真宗)の聖地に
■1563年(永禄6年)の「三河一向一揆」の拠点になり、
「空誓」(“本願寺中興の祖”である「蓮如」の曽孫)を中心に松平家康と戦う
→寺院ではあるが、堀や土塁の遺構が残るように造りは城郭だった!
※一揆の原因=家康の家臣が一向宗寺院に対する不入の約束を破ったためとも
■近隣の「小川城」の石川家をはじめ、多くの松平家臣が一向一揆に味方してしまう…
→「三河一向一揆」は家康の“三大危機”に数えられる(他は三方ヶ原の戦いと伊賀越え)
☆「三河一向一揆」に味方した家康の主な重臣
・石川康正(数正の父・数正は改宗して家康に味方)
・本多正信(後に許されて家康の側近に)
・渡辺守綱(後に許されて“徳川十六神将”に数えられる、異名は“槍半蔵”)
・蜂屋貞次(後に許されて“徳川十六神将”に数えられる)
・夏目広次[吉信](後に許されて三方ヶ原の戦いで討死、夏目漱石の先祖とも)
・加藤教明(“賤ヶ岳の七本槍”に数えられる「加藤嘉明」の父) など
■一向一揆との戦いは一進一退の攻防となるも、家康本人が出陣して徐々に優勢に
→最終的に和睦が結ばれるも、家康はすぐに破棄して寺院を破却し関係者を追放
■その後、一向宗は三河では弾圧の対象となって禁止!
→1583年(天正11年)にようやく活動を許され、本證寺も1585年(天正13年)に再興
■境内には江戸時代に建立された建築物が現存し、戦国時代に築かれた堀や土塁が残る