大河ドラマ『鎌倉殿の13人』神奈川県 畠山重忠腹切松公園源頼朝鎌倉殿の13人神奈川県横須賀市衣笠城三浦氏三浦為通三浦義澄三浦義明三浦義村 【衣笠城】激闘「衣笠合戦」!鎌倉殿の重臣「三浦一族」の城(神奈川県横須賀市) 神奈川県 2022.02.132022.08.15 Data 築城:1063年(康平こうへい6年)頃?築城主:三浦みうら為通ためみち(義澄よしずみの高祖父)主な城主:三浦家(為通ー為継ためつぐー義継よしつぐー義明よしあきー義澄ー義村よしむら)所在地:神奈川県横須賀市衣笠きぬかさ町ちょう所要時間:90分 Point ■鎌倉幕府の有力な御家人ごけにんとなった三浦みうら一族の居城 →三浦氏は「桓武かんむ平氏(桓武天皇をルーツに持つ平氏一族)の系譜」 →平為通ためみちが三浦(御浦みうら)の地を与えられて「三浦為通」と名乗る ※三浦為通は『鎌倉殿の13人』の1人「三浦義澄よしずみ」の高祖父(祖父の祖父)■1063年(康平こうへい6年)頃、三浦為通が衣笠城の麓に館を構える? →衣笠城は戦国時代の山城とは異なり、堀や土塁などの防御施設はほぼ無い (平安時代〜鎌倉時代の「城」は“要害の都市”というような意味合い)■1180年(治承じしょう4年)「衣笠合戦」 ・三浦一族は源頼朝の挙兵に参加したため平家の軍勢に攻め落とされる ・三浦家の長老「三浦義明」(義澄の父)は討死 ※城下で切腹したとも ・攻め落としたのは畠山はたけやま重忠しげただ(三浦義明の孫、母が三浦義明の娘だった)■1247年(宝治ほうじ元年)「宝治合戦」 →北条時頼ときより(泰時の孫)が三浦泰村やすむら(義澄の孫)など三浦一族を滅ぼす →衣笠城一帯は三浦家の支配下から離れる(衣笠城も廃城に?)■近隣には源頼朝が三浦義明を弔うために建立した「満昌寺まんしょうじ」もある パラメーター(5段階) 防御力 ★★映えレベル ★★知名度 ★アクセス ★★石碑設置度 ★★★★★ 登城口と案内板(城跡は小高い丘の上なので足元の準備はしっかりと!) 「衣笠城跡」の案内板(城の歴史や構造、三浦一族のことを予習できる!) 案内板の一段上にある「衣笠城趾」の石碑(石碑はあるだけ写真撮るよね) 衣笠城の標柱と中心部(土塁や曲輪の遺構っぽいがどうやら違うみたい) 「衣笠城跡案内図」と「三浦大介義明公八百年記念碑」 「衣笠城跡案内図」(描かれているように城跡は現在、桜の名所になっている!) 「三浦大介義明公八百年記念碑」(源頼朝の挙兵時に討死した三浦義明の顕彰碑) 衣笠城の主郭?(お隣の衣笠山公園ほどの数ではないが桜の木が立ち並ぶ!) 主郭の西にある物見岩(物見のための岩と伝わるが、今は木々で物見できない) 物見岩の脇の「衣笠城址」碑 別ver.の「衣笠城址」碑 物見岩の麓の「遺物發掘処」碑(1919年[大正8年]に経塚が発掘された場所) 主郭の北の「御霊神社」(三浦家の菩提寺「満昌寺」の御霊明神社の分社?) 「三浦氏累代碑」(衣笠城には色々な石碑が!三浦氏は愛されている!) 「蔵王権現社及御霊神社遺跡碑」と「衣笠城址公園大工事記念」碑 登城口脇の「大善寺だいぜんじ」(城跡の山腹にあり、この辺りに館があったとも) 「大善寺」からの景色(三浦半島の真ん中あたりなので海は見えません) 大善寺の石段(大善寺は729年[天平元年]に行基が不動明王と金峯蔵王権現が祀ったことに始まる伝わる) 「大善寺と不動井戸」の案内板(開基の伝承や三浦氏との繋がりの紹介も) 大善寺に伝わる寺宝について(平安時代末期の仏像が伝わる!) 「不動井戸」(行基が杖で岩を突くと清水が湧いて出たと伝わる) 伝・搦手口の切り通し(衣笠城の裏手の道と伝わる切り通し!細い!) 搦手口の切り通しを反対方向から(この先に大善寺や不動井戸などがある) 民家の脇の「旗立岩」(合戦の時に三浦氏の旗が掲げられたと伝わる) 「旗立岩」の祠(民家の脇ですが見学ルート有り ※許可いただきました) 旗立松から見た衣笠城跡(右手に大善寺があり、その脇が登城口です) 麓の「衣笠城址前」交差点(こういうの、嬉しくなって撮っちゃいますよね) 城下の「腹切松公園」(三浦義明が切腹した地と伝わる、スゴい名前の公園) 「三浦大介腹切の松」の案内板(この地にあった松が“腹切の松”として伝承された) 「三浦大介戦死之處」碑と「腹切松」(住宅街の中の公園ですがお見逃しなく!)