青森県日本100名城 南部師行日本100名城青森県八戸市南部家南部氏南北朝時代女城主清心尼八戸ねね 【根城】復元された中世の城郭!南部家の南部家による南部家のための居城(青森県八戸市) 青森県 2022.05.242022.08.15 Data 築城:1334年(建武けんむ元年)築城主:南部なんぶ師行もろゆき 主な城主:清心尼せいしんに(八戸ねね)所在地:青森県八戸はちのへ市根城所要時間:2時間 Point ■陸奥むつ(東北地方)で最大の勢力を誇った「南部なんぶ家」のお城の1つ →南部家は一族の◯◯家がたくさんあってややこしい…苦笑 ⇒「根城」は「根城南部家」(遠野とおの南部家)と呼ばれる一族の居城■1334年(建武けんむ元年)に「南部師行もろゆき」が築城と伝わる! (それ以前に工藤くどう家[ルーツは鎌倉幕府の御家人]の館があったとも)◯「南部師行」 ・鎌倉時代末期〜南北朝なんぼくちょう時代(室町時代初期)の人物 ・鎌倉攻めに貢献して後醍醐ごだいご天皇の「建武の新政」で重臣に ・南朝なんちょうの“根本の城”となる願いを込めて「根城」と命名したとも ・「石津いしづの戦い」(大阪府堺市)で足利尊氏あしかがたかうじ方の北朝ほくちょう軍に敗れ討死■南部家は東北のイメージが強いが、元の領地は甲斐かいの南部(山梨県南部町) →南部家の祖「南部光行」は武田信義たけだのぶよしの甥(従兄弟とも)にあたる →のちに領地の一つだった陸奥に移って戦国大名化していく■南朝に味方していた根城の南部家は徐々に勢力が低下… →代わりに勢力を伸ばしたのが「三戸さんのへ(青森県三戸町)の南部家」 ※居城は「本三戸もとさんのへ城」(聖寿寺館しょうじゅじだて)→「三戸城」→「九戸くのへ城」→「盛岡もりおか城」■根城南部家は南部の本家だったと考えられるが、三戸南部家の傘下に… →「八戸」を名乗って三戸南部家の重臣に名を連ねる■1614年(慶長けいちょう19年)に当主と跡取りが急死してしまう… →“女城主”の「八戸ねね」(清心尼せいしんに)が誕生!! ※のちに同族の「八戸直義なおよし」を娘婿に迎えて家督を継がせる■1627年(寛永かんえい4年)に「鍋倉なべくら城」(岩手県遠野市)に移され、根城は廃城に →「遠野南部家」と呼ばれるようになり、明治維新まで領主を務める パラメーター(5段階) 防御力 ★★映えレベル ★★★知名度 ★★アクセス ★★南部家カラー ★★★★★ 根城の入り口(城外に八戸市博物館が併設されている!) 博物館前の「南部師行」の像(根城を築いたとされる南朝の有力武将!) 南部氏の支配圏(岩手県・青森県一帯が南部家の領地だった!) 根城の復元想像図(馬淵川沿いの河岸段丘に築かれている!) 根城の本丸の復元想像図(天守や石垣なんて無くたって良いのよね〜) 南部氏の流れ(元は甲斐!シンプルで分かりやすい!) 根城の縄張り図(5つの曲輪で構成されている!) 移築された八戸城の「東門」(元々、根城の城門だったとも伝わる!) 東門の北側の土塁・空堀(この先に天然の外堀の馬淵川が流れている) 東門をくぐった先(「東善寺館」と呼ばれる曲輪が広がる) 東善寺館の一段高い曲輪(先ほどの写真の右手の景色) 一段高い曲輪の内部(石碑がある場所は撮り逃したくないよね) 東善寺館をもう少し西に進んだ先の景色(奥に中館・本丸が展開されている) 東善寺館の西側の堀跡(埋め立てられて通路としても使われたそう) 東善寺館を西側から一望(この辺りの地名は「東構」というらしい) 「中館」の東側の堀跡(芝刈りしてますね!お疲れきしです) 「中館」の石碑(「阯」という字に歴史を感じる!) 中館に復元された四阿あずまや(元は馬屋だったとも考えられているそう) 四阿の近くから見た馬淵川方面(麓の地域は下町と呼ばれている) 中館から見た本丸(柵の向こうに本丸の主殿が見える!) 本丸のジオラマ(主殿を中心に周囲は深い堀に囲まれて、右には木橋が見える!) 中館の西端から見た「本丸」(一段と深い堀に木橋が架けられていた!) 本丸に架かる「木橋」(有事の際には落とせるような造りだったそう) 木橋から見た北側の土塁・空堀(堀越しの景色って良いよね!) 本丸の虎口「東門」(木橋を渡った後に左折させるような縄張りになっている!) 本丸跡の復元図(再建された施設がたくさんあるので要チェック!) 「納屋」(約30cm掘られていて米や味噌が貯蔵されていたみたい) 「奥御殿」跡(殿様の家族が住んでいた御殿の柱と構造を再現!) 「板蔵」(奥御殿で使う衣類や道具を入れていた蔵!) 「鍛冶工房」(刀や甲冑などを作っていた工房!) 「常つね御殿」跡(殿様が暮らしていた御殿の柱と構造を再現!) 「工房」(弓や甲冑などの修理を行なっていた工房!) 本丸の西側の土塁・空堀(城内でも最大級の規模!) 「番所」(西門を見張るための番人が詰めていた場所) 「祭壇」跡?(神様が祀られていたと考えられいる) 「一葉一字供養塔」(八戸藩士の接待宗碩せったいせきそうが供養のため法華経を一葉に一字記して埋めたそう) 「物見」跡(見張のための櫓が建っていたらしい!) 物見跡の近くから見た「主殿」(主殿では特別な会見や儀式が行われた) 「下馬屋しものうまや」跡(馬の世話をする場所で餌や馬具などが置かれた) 「中なかの馬屋」(馬が繋がれていた場所!) 中馬屋の白馬(当時の体高[肩までの高さ]は約1.3mと小さかったそう) 「上かみの馬屋」(殿様専用の優秀な馬が飼われていた場所!) 上馬屋の駿馬しゅんめ(南部領は馬の名産地としても有名だった!) 東側から見た「主殿」(左側に御殿跡が広がる) 主殿の「台所」(来賓をおもてなしする料理を作ってたんでしょうね) 主殿の「詰之間」(おもてなし用の御前の準備が進んでいる) 主殿の「祈祷之間」(護摩業をして祈祷をした場所らしい) 主殿の「控之間」(儀式の準備を行うための部屋のよう) 主殿の「茶之間」(ここで客人を茶でもてなしたんでしょうか) 主殿の「二之間」(おもてなし役の侍が控えている!) 主殿の「広間」(正月に行われた年男の任命の儀式が開催中!)