続日本100名城大河ドラマ『鎌倉殿の13人』埼玉県 比企城館跡群鎌倉殿の13人畠山重忠埼玉県嵐山町山内上杉家北条家菅谷館菅谷城 【菅谷館】戦国時代に大改築された“坂東武士の鑑”「畠山重忠」の居城!(埼玉県嵐山町) 埼玉県 2022.02.152022.08.15 Data 築城:平安時代末期〜鎌倉時代初期?築城主:畠山はたけやま重忠しげただ?主な城主:畠山重忠、山内やまのうち上杉うえすぎ家、北条ほうじょう家所在地:埼玉県比企ひき郡ぐん嵐山町らんざんまち菅谷すがや所要時間:2時間 Point ■鎌倉幕府の有力な御家人ごけにんとなった畠山はたけやま重忠しげただの居城と伝わる →『吾妻鏡あずまかがみ』などに登場する「菅谷すがや館やかた」と考えられている ※発掘物などで確定する史料は発見されていないので伝承ベース■畠山重忠は1205年(元久2年)に北条ほうじょう時政ときまさの陰謀で滅ぼされる →「畠山重忠の乱」を起こし「二俣川ふたまたがわの戦い」で討死■畠山重忠は後に“坂東武士の鑑”と称される人気の御家人だった →北条時政が失脚する事件(牧氏の変)に繋がっていく■城郭として本格的に整備されるのは戦国時代! →山内やまのうち上杉うえすぎ家が整備して、北条家がさらに大改築したと考えられる →本郭を取り囲む曲輪や大規模な土塁や堀は戦国期の遺構と考えられる ※戦国時代の北条家は、鎌倉時代の北条家とは別の小田原城の北条家■杉山城・松山城・小倉おぐら城と共に「比企ひき城館じょうかん跡群あとぐん」として「国の史跡」に■また「続ぞく日本100名城」にも選ばれている →「館」という呼称ではなく「菅谷城じょう」とも呼ばれている■畠山重忠の館と伝わる場所は、他に「畠山館はたけやまやかた」(埼玉県深谷ふかや市)がある! パラメーター(5段階) 防御力 ★★★映えレベル ★★知名度 ★★アクセス ★★畠山重忠愛 ★★★★★ 国道254号に面した裏手の「搦手門からめてもん」(城跡や博物館のメインの入口) 搦手からめて口の案内板(直進できないように喰い違い形式の虎口になっている!) 「菅谷館跡」の案内板(本郭を取り囲むように曲輪が展開された縄張り!) 三ノ郭の案内板(畠山重忠を慕い、北条時政を敵視しているのが分かるw) 正拈門しょうてんもん跡と復元された木橋(西ノ郭と三ノ郭を繋ぐ重要な場所!) 正拈門しょうてんもんの先の「蔀しとみ土塁」(郭の中を見られないようにするための土塁!) 三ノ郭に建つ「埼玉県立 嵐山史跡の博物館」(城巡りの前にチェックを!) 三ノ郭の「建物跡と井戸跡」(発掘された遺構の跡地が示されている!) 三ノ郭に設置された菅谷館のジオラマ(ずっと見ていられる!) ジオラマの近くから見た「二ノ郭」(右側の堀の先が本郭です!) ジオラマの近くから見た三ノ郭の土塁(この上に畠山重忠の像がある!) 1929年作の「畠山重忠像」(鉄筋ではなくて竹筋コンクリート製だそう) 別アングルの畠山重忠像(向いている先にあるのが、そう、鎌倉!) 二ノ郭の南端にある石碑と案内板(この先の土橋を渡ると本郭がある!) 石碑の先に土橋があり、その先の虎口を突破すれば本郭に突入! 土橋から見た東側の空堀(左手が二ノ郭、右手が本郭!) 前の写真の空堀の底から見た土橋(左手が本郭、右手が二ノ郭!) 石碑の西側から見た土橋と本郭の虎口(これはもう横矢を掛けたくなる!) 石碑の西側から見た土塁と空堀(土塁が出っ張っているのが分かる!) 前の写真の反対側から(本郭に行くには土塁をグルっと回らないといけない!) 「出桝形でますがた土塁」(敵に横矢を掛けるための出っ張った土塁)の案内板 出桝形土塁から見た本郭への土橋(見事に真横から攻撃することができる!) 出桝形土塁から見た虎口と本郭 ※特別に土塁に登られていただきました! 「本郭」の内側から見た虎口と土橋(土の城はやっぱり楽しいね〜!) 「本郭」(東西150m×南北60mの長方形をした方形館ほうけいやかたスタイルをしている!) 「南郭」(本郭の一段低い南側にあり、二ノ郭と繋がっているような構造) 南郭を流れる小川(一帯は「ホタルの里」と呼ばれる自然保護地になっている!) 南側を流れる「都幾川ときがわ」(この先の上流に石積が残る小倉城がある!) 都幾川の下流を望む(この先の南側に木曽きそ義仲よしなかが誕生した「大蔵館おおくらやかた」がある!) さすが清流の都幾川ときがわ!サギがいました(実は前の写真にも写り込んでいます)